世界中から注目を集めていた第13回パラリンピックが、2008年9月6日から9月17日にかけて北京で開催されました。
北京パラリンピック及び北京オリンピックは初めて同一の組織委員会が主催し、かつ、同じ競技場を使用した大会であり、北京パラリンピックには世界の147の国及び地域から約4,200名のパラリンピック選手(視力障害者及び肢体障害者のみです。)が試合に参加しました。中国からは332名の選手が20競技のすべて、295種目に参加し、彼ら選手は、異なる10の民族からやってきた、普段は公務員、学生、農民又は自由職業者等をしているアマチュア選手でした。各国・各地域のパラリンピック選手は、粘り強く懸命に努力し、また、勇敢に頂点を目指し、279の障害者世界記録及び339のパラリンピック記録を塗り替えました。その中で、中国のパラリンピック選手は、89個の金メダルを含めた合計211個のメダルを獲得し、金メダル及びメダル総数の各ランキングでトップとなりました。
パラリンピック参加資格を取得した選手は、各国・各地域の障害を有する選手たちがたゆまず自己を向上させ、勇敢に、かつ、一生懸命に努力した結果であり、全員がそれらの国や地域の選手の中でもきわめて優秀なスポーツ選手であると同時に、各国・各地域の障害者の中の優秀な人材及び傑出した代表です。スポーツとは、人の意志、生命及び極限に対する挑戦であり、また、試練でもあります。12日間のパラリンピック期間中、意気盛んな「鳥の巣」においても透き通った輝きの美しい「ウォーターキューブ」においても、パラリンピック選手は、スタートし、飛び込み、レシーブし、シュートし、…するごとに、私たちを驚嘆させ、感動させてくれました。その中には、腕のない「飛魚」、脳性麻痺の「飛人」、障害のある腕の代わりに口を使うアーチェリー選手、両手を失ったために腕にラケットを固定して試合をする選手といった姿があり、彼らは一つまた一つと記録を破り、奇跡を創り出し、神話を実現していきました。私たちは、彼らを通じて何が不撓不屈ということであり、何が人の心を震わせ、何が生命の奇跡なのかをはっきりと、そして直感的に感受し、パラリンピック選手による生命についての素晴らしいパフォーマンスを享受することができました。
パラリンピック選手は、身体的障害により心理的に暗くなることなく、不遇に直面しながらも却って頑強さと懸命な努力によって生命の尊厳を守り、顔には微笑をたたえ、自らの自信、穏やかさ及び不屈の精神をゆとりある表情で人々に示し、運命に屈服せず、頑強に自己を超越する人格の力を人々に悟らせました。そのような、自らを向上させることを怠らず、楽観的に進取に努める精神は私たちの心に一種の非凡な力及び震えをもたらし、私たちは生命の美しさと強靭さに感動しました。彼らは、自らの生理的な不自由に打ち勝ち、それを超越し、意志と技能、体力の競争を通じて生命の潜在的能力に挑戦し、非凡な勇気をもって運命の咽喉を扼し、努力をし、かつ、汗を流すと同時に、人類の強靭さ及び不屈さを記し、人類の潜在的能力及び偉大さを表現していました。そして、世界の人々に、すべての生命は皆、価値及び尊厳を獲得することができること、生命は偉大であることを訴えたのです。
生命は、血肉の存在としての身体ですが、人類が思想及び意志を生命に与えることによってのみ、魂の光、智恵の光を放出します。魂と身体及び内在と外在は、人の生命のすべてを構成します。人は、健全な躯体を有さないでいることはできても、健全な魂を有さずにいることはできません。人類が強靭さ及び勇敢さを生命に与えることによってのみ、血肉の存在としての身体である生命は、懸命に努力する力、前進する力を発揮します。勝利及び超越は、人の存在する意義を構成します。北京パラリンピックは生命を礼賛する盛会であり、生命の力及び勇気は、すべての人に心からの生命のための喚声を上げさせました。偉大なるパラリンピック選手たちは輝かしい成績を創り出し、彼らの国や彼らの民族、彼らの親族は彼らを誇りに思い、世界の人々は彼らに喝采したのです。
世界には能力の欠けた人は存在せず、ただ、能力の異なる人が存在するだけです。障害者は、できないのではなく、不便であるのです。障害者の公民権は、必ず重視され、尊重され、履行されなければならず、彼らには平等な地位及び均等な機会が与えられなければなりません。北京パラリンピックでの最も重要な遺産は、中国の全人民が思い遣りのある視線をより多く障害者に向け、かつ、徐々に障害者に焦点を合わせるようになったことです。障害者は、軽視できない巨大な集団であり、特性が際立っています。各級政府、社会及び健常者は、彼らが基本的な生活、リハビリ、教育・育成訓練、就業・生計及び社会参加等の分野において障害により回避するのが難しい困難を克服するのを助け、かつ、有効な奉仕を提供する責任があります。また、同時に、障害者を受け入れ、かつ、収容する更に大きな空間を提供し、自国の社会・人文・思い遣りの全体的な水準を向上させなければなりません。健常者及び障害者は相互理解及び交流を深めなければならず、各々の生命は尊重されるべきものです。相互に関心を寄せあい、支持しあうことは、社会の発展をともに作り上げ、ともに享受することがもたらす成果です。
国際オリンピック委員会のサマランチ終身名誉会長は、障害者のスポーツを「人類の良知を呼び覚ますスポーツである。」と言っています。障害者のスポーツ史は、人類が生命を愛護し、生命に関心を寄せてきた文明史であり、人類の和平、友誼及び進歩を推進する事業であるばかりではなく、更には和平、友誼及び思い遣りの種を人々の心の中に植え付けてきたのです。同じ青空の下、障害者を尊重し、及び思い遣ることは、社会全体の自覚的な意識及び積極的な行動とならなければなりません。北京パラリンピックは偏見をなくし、良知を呼び起こす一つの機会であり、人類は自らの良知を不断に向上させていく必要があります。これと同時に、パラリンピックは、障害者の生活状況を改善する促進剤とすることもできます。中国の障害者社会保障の基礎は薄弱であり、措置は十分に完全であるとはいえず、発展途上国の水準に留まっているため、障害者の生活状況と社会の平均水準とには比較的大きな開きが存在します。この開きを縮め、障害者事業の発展を促進するには社会全体が行動を起こす必要があり、障害者事業と経済・社会とのバランスの取れた発展を実現するにはすべての人々が手を取り合い共同して努力する必要があります。
キャストコンサルティング(上海)有限公司は、社会という大家庭の一員として、障害者事業の発展に積極的に参与し、また、これを推進しています。上海市及び区の障害者連合会(半官半民組織)と企業との連絡及び交流のプラットフォームとして、キャストCSR部は、NPOという形で中国における日本資本企業にコンサルティング及び障害者の求人募集に係るサービスをご提供させていただいており、企業に対し必要とされる障害者を送り出し、企業が積極的に障害者を雇用することに協力しています。また、障害者連合会と企業との協議に関係する業務にも積極的に参与し、障害者連合会を支援して優秀な企業に各種の障害者の育成訓練実習基地を設立し、障害者の就業のために事前準備業務を適切に行っています。
「育成訓練実習」とは、障害のある青年が育成訓練実習基地での実際の業務役職について一定期間の実践的実習をし、彼らの処理能力を向上させ、業務経験を豊かなものにし、かつ、役職就任の適応性を強化することによって、早急に就業を実現することをいいます。育成訓練実習基地の職責とは、実習者の実習期間における育成訓練、実習プランの制定、実習役職の確定及び実習要求の明確化に責任を持つこと、責任感が強く、及び経験の豊富な実習指導者の選定・手配に責任を持つこと、実習者の日常管理を適切に行い、実習業務の正常な運行を保証すること、実習生の日常的考査に責任を持ち、彼らの生活補助支給業務を適切にすること、実習終了後に、実習者に対し業務能力評価をし、その他の雇用単位が実習者を採用する際の根拠を提供すること、実習者について優秀人材採用枠を設けることもできるということを含め、障害を有する青年の就業を推進することです。実習期間は一般に3~6か月で、実習者の年齢は18~35歳であり、実習期間において、実習生と実習基地とは労働関係を確立せず、実習指導者に指導料として1人につき毎月200元を障害者連合会から支払います。また、実習期間には各実習者に毎月、当市の当該年における都市・鎮従業員最低賃金基準の60%にあたる生活補助が障害者連合会から支給されます。
北京パラリンピックは、中国の障害者事業の発展に新たな契機をもたらしました。障害者就業は、障害者事業の重要な構成部分であり、国民生活改善の重点、社会保障の難点及び社会調和の注目点でもあります。障害者と健常者とがともに打ち解け、調和し共有することは、パラリンピックの精神であるばかりではなく、中国が調和社会を建設する上で必要なことでもあり、社会全体の責任及び義務でもあります。
障害者スポーツ大会の開始は、第2次世界大戦後のことです。当時、戦争で脊髄を損傷し下肢麻痺となった軍人が速やかに快復できるよう、イギリスの神経外科医であるルードウィッヒ・グッドマン卿と障害者事業に熱心であった一部の人士たちが、1948年のロンドンオリンピック期間中に「ストーク・マンデビル競技大会」と称された車椅子のスポーツ選手(その多くが、脊髄を損傷した第2次大戦の肢体障害軍人でした。)の参加する試合を組織し、そしてこの4年後、国際ストーク・マンデビル競技連盟がイギリスにおいて成立し第1回国際障害者スポーツ大会が開催され、その後は年に1度開催されるようになりました。これこそが、「パラリンピック」の前身なのです。1960年、ローマで開催された第17回オリンピック終了後の2週間後に、世界の23か国から約400名の障害者スポーツ選手がローマにおいて第9回国際ストーク・マンデビル競技大会に参加し、これが後に国際オリンピック委員会により第1回の「パラリンピック」であると正式に認定されました。
そして、1988年のソウルにおける第8回夏季パラリンピックの後に、夏のパラリンピック及びオリンピックが同一の都市で開催されることが慣例となり、通常、夏季オリンピックが閉幕した1か月内に夏季パラリンピックが行われています。
パラリンピックは、国際オリンピック委員会及び国際パラリンピック委員会が主催する、肢体障害者及び視力障害者のために開催される世界的な大型綜合競技会であり、1960年の開始から4年ごとに夏季オリンピック後に1回開催され、現在では13回を数えます。48年が経過し、当初の23の国及び地域から約400名の障害者選手が参加するだけであった大会から、北京での第13回パラリンピックでは147の国及び地域から約4,000名の障害者選手が参加する大会となりました。このことは、時代の発展を象徴しているばかりではなく、人類の社会文明の進歩をも表現しています。
1980年から、中国は7回の夏季パラリンピック及び7回の夏季オリンピック、2回の冬季パラリンピック及び7回の冬季オリンピック、6回の夏季スペシャルオリンピックス【1】及び4回の冬季スペシャルオリンピックス並びに4回の夏季デフリンピック【2】及び1回の冬季デフリンピックに選手団を組織して参加し、国際的な競技の場において、アスリートたちは祖国のために栄誉を勝ち取ってきているのです。
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【1】1968年より始まった、知的障害者に焦点を当て展開される国際的なスポーツトレーニング及び競技の場
【2】1924年より始まった、聴覚障害者のみが参加する世界規模の国際競技大会
キャストコンサルティング(上海)有限公司
CSR部 林偉